自転ではなかった

2026年09月19日 23:52
カテゴリ: 日々猫さん

自転ではなかった

昨日、アクティブ・イマジネーションの実践について書きながら「こんな纏め方ではつまらん。」と思い、そして居つきそうな点について「くそう。モヤるわ☁️」と納得がいかない感覚に襲われておりました😥

モヤる理由の1つとしては、坐禅を行う上で大切な教え「仏に逢うては仏を殺せ」、これが頑固に染み付いているからといえましょう。「霊的存在」が現れたところで特別視しないスタンスは「見性」や「悟り」に真っ直ぐ向かう上で重要な事ではあります。
要は変性意識状態では何やら出てくる時もあるし、それを過大評価して囚われんなよ、究極の悟りからすれば迷妄に入りかねませんよ、という誇大妄想を防ぐ教えであります。

その言わんとするポイントを忘れ、「霊的存在を敢えて無視する」ましてや「出たらいきなり殺す」など不自然な対応をするのは「教えに居つき、解釈が偏狭である」ことと言えましょう🥲

霊的領域の存在全般に対し失礼でもありますし、そんな居つきはぶっ壊した方がよろしく、憑かれないための練功と工夫を行いつつ、この世同様ケースバイケースの対応が出来た方が良いと思われます。
脳機能回路でいえば思考、判断を行う自我の主座、前頭前皮質が存在するCENが居ついてしまっている状態だとこのあたりの柔軟性は持てないことになります。

そしてもうひとつ、ユングが西洋思想文化をバックボーンに持つ智者であり、「対話文化」や「哲学的土壌」が培われた歴史が日本とは違うという点です。

哲学書も含め、西洋の文芸分野では「対話モノ」と言えるような書籍が多く存在します。
プラトンもまた「パイドン」において師、ソクラテスを登場させ弟子たちとの対話(ロゴスを交わす)形式により互いの無知を知り、イデア(より高い真理)へと至るプロセスを記述されています。

確固たる自我確立文化を長らく持ち、互いを独立した主体と認め論理に従うことや、主張の妥当性を問う等の「対話」上の暗黙のマナーが存在し、人格攻撃などの手段は違反と見做されます。

こういった「目的や真理に到達するための方法論(弁証法)」としての「対話」の概念や意義を知るユングでした。アクティブ・イマジネーションでの「対話」もそのようなベースの上に築かれた技法となります。

一般的な会話とはまた違う意義をもってのユングの試みであったのでしょう。
当初こそ無意識から浮上してくる強大ななエネルギー、幻覚に圧倒されたユングでしたが、対話を続けるうちに慣れ、主導権と委ねることの兼ね合いの妙を覚えます。ユングの議論相手となる「フィレモン」が登場し、こちらの存在はユングの自我に対し独立した知恵を語る、指導者的存在でした。
この確たる個を保ちつつ、執拗とも取れるような対話の積み重ねからは、ユングのCENのタフネスが伺えます。
ここで「居つき」の有無を問うのはナンセンスと言えるでしょう。

他方、東洋的伝統においては、無意識との関わり方に違いも見られます。
​東洋の瞑想、禅ではイメージや思考が生じれば「ただ流れるものとして観照する(流す)」、或いは「対象と一体化する(主客未分・合一)」等の思想文化的違いが見られます。

私自身は「アクティブ・イマジネーション」の適応範囲外ですが、老松克博先生の実践手引きは日本人にも親しみやすく、また老松心理学は「気」「気配」「内的エネルギー感覚」、身体感覚についても心理学的に捉えられています🙂

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