雨の日🌧
そなちゃん(ΦωΦ)との様々な「気持ち」のやり取りも癒やしです✨
「花が咲いたこと」
「三日月が澄んでいたこと」
「雨が降っていること」
「今日び、珍しく道に🐶の💩が落ちていて、衝撃を受けたこと」
そんなこんな全てを、
「早く帰ってそなちゃんに報告しないと💦」
という日々をずっと、送っています。
「そなちゃ〜ん✨」
と呼ぶと
✨((((ΦωΦ))))💞 { ウレシー✨
のような、「はーい♪」の「波」が返ってきます。
馴染んだ音律と抑揚も気に入ってくれているみたいです😊
そなちゃんもよくお喋りしてくれます😺
「ごはん食べたいの?」
「嬉しいのね」
「遊びたいのね」
「寂しいのね^^」
「心配してくれてるのね」
「おトイレ行っていい子ね〜✨」
そなちゃんの言葉やエネルギーを、人の言葉と「嬉しい」エネルギーでフィードバックします。
そなちゃんは私の言葉もよく覚えてくれます👍
猫ちゃんは「野生本能上」、我慢上手です。
痛いこと、辛いこと、しんどいこと、そんな「弱った」状態を察知されては生存率が下がります。
そなちゃんの察知能力は高いのですが、こちらも微妙な「異変」や気持ち、エネルギーを察してあげないと、「気力の落ち込み」や病変などが手遅れになったりします。
「幼少期、手がかからず、育てやすい子だった」
後に、母に言われました。
自身の気持ち、状態、感じたこと、要求、ほぼ何も言わなかったからです。
割に早いうちから「痛い」も言わず、人前で泣きません。
母に何か言われると、その場で「はい」と従う。しかし内心、それが今自分にとって大切か、やりたい事か、必要か判別し、それに従うという方法を取っていました。
1歳4ヶ月くらいでしたでしょうか。
「厳しいスーパーエゴ」が芽生えた体験を覚えています。
子供は好奇心の塊ですが、幼い私にとっても、世界はわからないものだらけです。
不安に追われることも多く、事象に対して出てくるのは
「なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?」
それに応えてくれるのは、「本」や「勉強」「習い事」でした📚
「感情を含め、自身の内的感覚を言葉で素直に表現すること」を学ぶ段階を飛ばし、私にとっての「言語」とは、環境や世界を楽しく理解し、納得し、安心させるものでもあったのです。
内∞外「世界」を繋ぐツール🌈としての「言葉」、その習得初期段階において。
哺乳類の温もりを感じつつ、親がまだ拙い子供の内的感覚の発露を受容、共感し、言語でフィードバックして、シンプルに教える。
その土台があっての健全な言語習得であると、痛感しています。
しかし、「長女として育った母」の内部にある「封建的教育による抑圧や、複雑な感情でいっぱいな部分」、その「居つき」のようなものを何となく感じていました。
「子供の情緒」に対応する余裕など無いのです。父はASDのような特徴が顕著であり、「情緒を汲み、対応する」ことは苦手です。
両親の目の前にいる私は、「居ない感じ」でした。
それでも、「自然環境」は輝き、私をただ受容し、育み、優しく感応し合うことを教えてくれていました🌳🌼🌊✨
これに通じるようなことが、ブランケンブルグの「自明性の喪失」に記されていました。
今でも、そなちゃんと「言葉で気持ちを伝え、受け取る」という楽しいアサーションの、初歩の練習をさせてもらっています😊
そなちゃんにとっての良い環境のため、身口意や心が | となるために✨
「集約拳」に似た、鉄拳を喰らっていた幼少期。集約パワーを実感🤜
肥田式に行くわけですわ(笑)